バルトークのアメリカ生活

  ここでは地図やリンクを使って、バルトークの生活が「見える」ようにしてみました。写真は村上泰裕が2013年8月に撮影。

1940年 新天地への第一歩

フォレストヒルズのアパート
フォレストヒルズのアパート

 4月~5月18日、2度めの訪米(演奏会、講義、亡命の下調べ。シゲティ、グッドマンとの《コントラスツ》の録音はこの時)。
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 10月8日、ブダペスト音楽院大ホールでお別れ演奏会。

 10月12日、ディッタとチャラーン通りの家を後にする。列車利用。ベーラJr.は家族と共にハンガリーに残る。ペーテルは全寮制の高校に卒業まで在学する予定。

 10月19日、ポルトガルのリスボンに到着。4個のトランクのうち2個を紛失し、失望。

 10月20日、エクスカリバー号でリスボンを出航。

 10月30日、ニューヨーク着、エルネー・バローが出迎え。しばらくマンハッタン西57丁目のザ・バッキンガム・ホテル(現ザ・クイン)に滞在。

 11月3日、ニューヨークのタウンホールで演奏会。衣装は紛失したトランクに入っていたので借り物でしのぐ。妻とピアノデュオで演奏旅行開始

 11月25日、コロンビア大学から博士号を受ける。

 12月8日、フォレストヒルズの新築アパート(現ニューハンプシャー・アパート)に落ち着く。夫妻の部屋はクイーンズ大通り(ブールヴァード)に面した6階。大通りからの車の騒音に加え、その下を走る「壁を揺らすような地下鉄の轟音が5分おきに聞こえた。」下の階の住人から料理の音がうるさいと抗議を受ける。

 12月、リスボンでトランクが発見されるが、米国への発送が滞る。

 《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》を《協奏曲》に改作。

 

Google:フォレストヒルズのアパート。110-31, 73rd Road, Forest Hills, Queens, NY

 アパートの入口は建物の東側。すぐ東側に地下鉄75丁目&クイーンズ通り駅。マンハッタンまで30分ほどだが、コロンビア大学には乗り換えが必要。

1941年 新たな生活への適応

リヴァーデイルの家
リヴァーデイルの家

[住居は引き続きフォレストヒルズのアパート]
 1月12日、トランクがリスボンから未発送の件で、イギリスのレイフ・ホークスに電報で援助を求める。

 2〜3月、ディッタとのピアノデュオ演奏旅行。

 3月、コロンビア大学での勤務開始。ミルマン・パリーが残した民謡録音の整理。3〜8月で1,500ドルの報酬。地下鉄の乗り換えが苦痛。

 4月、リヴァーデイルの物件情報を知る。

 5月1日、リヴァーデイルの家の2階に転居。1階はイタリア人家主、3階は空き室。月75ドル。地下鉄の乗り換えなしにコロンビア大学に通勤可能。ブダペストの家に似た雰囲気で、フォレストヒルズよりずっと満足。ガスレンジ、冷蔵庫、ボールドウィンのピアノあり。家財はフリーマーケットで購入。通りでは子どもたちが元気に遊んでいる。

 7月26日〜9月4日、ディッタと共にヴァーモント州リヴァートンのアガサ・ファセットの別荘で過ごす(関連映像)。この別荘の建物は現存しない。この別荘でディッタは何度か過ごしたが、バルトークはこの1回限りだった。リヴァートンでアガサから2匹のネコをもらい、連れて帰る。

 9月、コロンビア大学の契約が半年延長。9月〜2月で1,500ドルの報酬。

 冬、発熱が始まる。
 12月、《組曲第2番》を2台ピアノ用に編曲する。

 12月26日、ペーテルがブダペストを出発する。

 

Google:リヴァーデイルの家。3242 Cambridge Avenue, Bronx, NY

 ブロンクス区リヴァーデイル地区。家はケンブリッジ通りに面している。ストリートビューでは街路樹に隠れがち。家から南側のユーウェン公園(『父・バルトーク』にイーウェン公園と書きましたが、その後現地で正しい発音を教えてもらいました)内の坂道を下り、231丁目を東に進むと、徒歩10分ほどで地下鉄231丁目駅に着く(ストリートビューで辿るとおもしろい。公園内は通れないので外周を迂回します)。

 同じケンブリッジ通りで少年時代を過ごした指揮者デイヴィド・ジンマンは、近所の変な音がする家に石を投げ、後日それがバルトークの家だったと知って後悔しているとインタビューで振り返る。

Google:コロンビア大学の職場。420 West 118th Strreet, NY

 1941〜43年にバルトークが勤務したレンガ作りの建物は、1960年代に新校舎建設のために取り壊された。現在、その場所(マーカー右)は国際関係・行政大学院(School of International and Public Affairs)になっている。
 バルトークが1940年11月に名誉博士号を受けたのは、大学のシンボルマークとなっているローマ風のドーム型建築物ロウ・ライブラリー。大学西門をブロードウェイに出ると、通勤に利用した地下鉄の116丁目コロンビア大学駅がある。

1942年 体調不良の始まり

ペーテルと再会した231丁目駅
ペーテルと再会した231丁目駅

[引き続きリヴァーデイルの家]

 新年早々のインフルエンザ(?)以降、微熱が続く。

 3月、シカゴでデュオ演奏会。不評。コロンビア大学の契約が半年延長、3月〜8月で1,500ドル。教え子に「経験のしたことがない惨めな状況がまもなく」と書く。

 4月1日以降、毎朝発熱(37度8分ほど)がある。
 4月、ペーテルがブダペストから4ヶ月かけてニューヨークに到着し、231丁目駅を出た時に父と再会する。

 6月、ボールドウィン社が貸与ピアノを引き上げる。

 7月、ペーテルがマサチューセッツ州コンコードの養鶏場で体験労働を開始。

 9月、飼っていた2匹のネコとの別れ。コロンビア大学の契約が12月末まで延長される。

 10月、研究書『ルーマニア民謡全集』が完成。

 冬、発熱が深刻になり、ペーテルが電気ヒーターを自作して部屋を暖める。

1943年 闘病と作曲家しての再起

セイジマン・コテージ
セイジマン・コテージ

[引き続きリヴァーデイルの家]

 1月1日、コロンビア大学から解雇通告

 1月21、22日、ニューヨークフィルと共演。ライナー指揮、カーネギーホール。ディッタと共に《2台ピアノと打楽器のための協奏曲》の米国初演。初日、途中で即興を始め、演奏を混乱させる。翌日は楽譜通りに演奏。これらが最後の演奏会となった。

 2月、ハーヴァード大学で連続講義を開始。大学があるケンブリッジ市まで片道5時間の列車通勤で疲労困憊。半年間の予定を3回で断念。

 5月、ASCAPが医療を提供し始め、ドクターズ病院に再入院。結核の仮診断で退院(白血病と判明?)、ASCAPは転地療養を勧める

 6月、研究書『トルコ民謡集』の原稿を完成する。

 7月、レコーディングを制限していた音楽家ユニオンを退会するが、体調が悪くレコーディングはすでに困難。リヴァーデイルの家を契約解除、荷物は貸倉庫に預ける。

 ASCAPの費用で保養地サラナクレイクセイジマン・コテージに滞在。結核患者と共に検査や看護を受けながら生活。

 7月31日、ペーテル19歳の誕生日。メッセージ「神はもう世界から手を引いた」。

 8月15日、《管弦楽のための協奏曲》の作曲を開始。意欲的に創作を進める。

Google:セイジマン・コテージ。32(現60) Park Avenue, Saranac Lake, NY

 サラナクレイクはニューヨーク市の北部、アディロンダック山脈にある村。大小の湖沼に囲まれ、フラワー湖畔に町がある。家並みはヨーローパ風。20世紀の初め頃から結核の療養施設が多く建てられた。
 セイジマン・コテージは村の中心街から北に歩いて10分ほどの高台。バルトークの部屋は玄関の右側の部屋で過ごした。現在はアパート。

 10月11日、ニューヨークでの滞在先が二転三転して決まり、サラナクレイクを後にする。

 10月12日、ASCAPの費用でニューヨークのホテル・ウッドロウ(現レストラン・ピッチョリーネ)にしばらく滞在する。

 10月13日、スピヴァコフスキーとニューヨークフィルによる《ヴァイオリン協奏曲(第2番)》を聴く。15, 17日も。

 10月18日、サラナクレイクでやり残した《管弦楽のための協奏曲》完成する。

 11月26日、メニューヒンがカーネギーホールで《ヴァイオリンソナタ第1番》で演奏し、《無伴奏ヴァイオリンソナタ》の作曲を委嘱。

 冬、ASCAPの費用でアッシュヴィルのリゾートホテル、アルベマール・インで過ごす。
 ペーテルに米国政府から徴兵通知があり、家族で相談のうえ拒否する。

1944年 ヨーロッパの動向を憂慮

セイジマン夫妻宅(現ベーラ・バルトーク・コテージ)
セイジマン夫妻宅(現ベーラ・バルトーク・コテージ)

[アルベマール・インで年を越す]

 1月、ペーテルが徴兵に応じる方向に転じる。《管弦楽のための協奏曲》のボストン初演が延期。体温計が不良品と分かる。熱が下がっていなかったことが判明。

 2〜3月、《無伴奏ヴァイオリンソナタ》を作曲。ペーテルが米国海軍に入隊、基礎教育始まる。

 4月末、アルベマール・インを去る。ニューヨークで再びホテル・ウッドロウに滞在。

 7月、ASCAPの費用で再びサラナクレイクのセイジマン・コテージに滞在。といっても、実際の部屋は、裏にあるセイジマン夫妻の住居の一室。「結核でない」ことが内々に伝わっていたのだろうか(現ベーラ・バルトーク・コテージ

Google: セイジマン夫妻の自宅。61 Park Avenue, Saranac Lake, NY

 ベーラ・バルトーク・コテージと呼ばれながら、現在は民家。
 バルトークが表のセイジマン・コテージ(療養施設)と裏のセイジマン夫妻宅のどちらに住んだか、長年混乱していた。2012年に私が問題提起し、ヒストリック・サラナクレイクとペーテルの間で記録を整理し、2年めの住まいは裏のセイジマン夫妻宅だったとほぼ推定されている。

マンハッタン西57丁目のアパート
マンハッタン西57丁目のアパート

 10月4日、サラナクレイクを後にする。

 10月5日、ニューヨークに到着。アパート探しが不調に終わり、ディッタのマンハッタン西57丁目のアパートに同居する。503号室(右の写真は6階まで写っている。5階左端の窓に室外機がある部屋)。

 11月28日、ディッタと共にボストンに出発。

 12月1日、クーセヴィツキー指揮とボストン交響楽団による《管弦楽のための協奏曲》の世界初演を聞く。好評。

 12月3日、ニューヨークに戻る。

 12月、ミルマン・パリーを引き継いだ『セルボ・クロアチア民謡集』が完成(IMSLPでも閲覧可)。

 12月30日、 《管弦楽のための協奏曲》がボストンからラジオ放送。同じアパート内のケチケメーティの部屋で聞く。

Google:マンハッタン西57丁目のアパート。309 West 57th Street, NY

 地下鉄59丁目駅があるコロンバスサークルやセントラルパークのすぐ近く。1928年建築、16階建て、100室。57丁目を東に5分も歩けば7番街のカーネギーホール。

1945年 創作の再開と急逝

ハール氏の山小屋(現バルトーク・キャビン)
ハール氏の山小屋(現バルトーク・キャビン)

[マンハッタン西57丁目のアパートで年を越す]

 1月10日、ニューヨークで《管弦楽のための協奏曲》再演。13日にも。

 1月16日、夕方、雪で交通機関が麻痺し、歩いて帰宅する。
 1月17日、ラジオ局でドラティ指揮《組曲第2番》に立ち会う。放送時間を優先したテンポ設定に失望。
 1月19日、マークス出版社と『初期のピアノ曲集』出版で契約(当時は実現せず。BR708)。
 友人の支援を得られず、官庁街を一人で巡る。外国税控除が受けられないと知って落胆。

 この頃、3人から作曲委嘱。
 2月、『ライフ』誌で戦後のハンガリーの状況を知る。

 4月28日、『ニューヨーク・タイムズ』紙で、自分がハンガリーの新議会議員に選出されたことを知る。
 5月、『ルーマニア民謡全集』の改訂を終える。

 メニューヒンからカリフォルニアの別荘を提供されるが、費用と距離を考えて断念する。
 6月、1946年のハーヴァード大学での講義を引き受ける。食糧配給券の理解を誤り、無駄にする。

 6月25日、3度めのサラナクレイクにディッタと出発。自費でマックス・ハール氏の山小屋に滞在し、《ピアノ協奏曲第3番》と《ヴィオラ協奏曲》に取り組む。

 7月3日、プラッツバーグ経由でカナダのモントリオールに行き、米国の移民ビザを手にする。
 7月中旬、ハンガリーに残した親戚、仲間の生存情報を得る。

 8月上旬、ペーテルのアレルギー症状が悪化し、疾病除隊が決まる。

 8月10日、ペーテルが除隊する。
 8月11日、サラナクからペーテルへ最後の手紙。山小屋への道順を知らせる。
 8月15日、ペーテル、ニューヨークに到着。その後、サラナクレイクに向かい、両親と過ごす。

Google:ハール氏の山小屋。89(現58) Riverside Drive, Saranac Lake, NY

 母屋も同じ住所だが、地図上のマーカーは山小屋を示してある。建物はヒストリック・サラナクレイクが1999年にペーテルの寄付で修復し、バルトーク・キャビンとして管理・公開している。

最後の住居に掲げられた像とプレート
最後の住居に掲げられた像とプレート

 

 9月初旬、高熱が続き、サラナクレイクからニューヨーク市の西57丁目のアパートに戻る。

 9月中旬、アパートの家主からの立ち退き要求に憤慨。

 9月22日、救急車でドクターズ病院に入院する。アパートを出る前に《ピアノ協奏曲第3番》の最後17小節の小節線をペーテルに引かせる。

 9月26日、死去。ニューヨーク到着から1,793日め。

 9月28日、ブロンクス北部のファーンクリフ墓地に埋葬される(1988年にブダペストのファルカシュレーティ墓地に再埋葬)。

 

【参考文献】

 Bartók, Bela (Ifj.): Apám Életének Krónikája, 1981, Zeneműkiadó Budapest.(長男ベーラJr.著、父の記録日誌、ハンガリー語)

 Bartók, Peter: My Father, 2002, Bartók Records.(ペーテル・バルトーク著/村上泰裕訳『父・バルトーク』2013、スタイルノート)
 Fassett, Agatha: The Naked Face of Genius, 1958; Béla Bartók, American Years, 1960, Dover Publications.(アガサ・ファセット著/野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』1973、みすず書房)

 

ニュース

2017年6月16日、事後になり申し訳ありません。本日、NHK Eテレの『らららクラシック』バルトークの管弦楽のための協奏曲が放映されました。陰で少しお手伝いしました。ニュガトに「中国の不思議な役人」原作が掲載されて100年になりました。

 

11月5日、品切れになっていたLPレコードの303, 313, 905が再入荷しました。

 

9月30日、帰国しています。ペーテルは車椅子等の補助が必要ですが、数m程度なら自分で歩くことができ、安心しました。いずれ当ウェブサイトで報告したいと思いますが、現在は多忙で時間がかかりそうです。

 

9月21〜29日、ペーテル・バルトーク氏のお見舞い他のために渡米します。

 

8月27日、LPレコードの303, 313, 905が在庫切れ・再注文中です。ご不便をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

 

7月28日、次の日曜日はペーテル92歳のお誕生日です。昨年に引き続き、一緒に誕生日を祝うことはできませんが、9月にお見舞いに行けそうな状況です。昨年の転倒により車椅子生活ながら、お元気と聞いています。

 

7月9日、下記でご連絡したCDが再入荷しました。

 

4月27日、3種類のCDが在庫切れで入荷待ちになっています。予約注文は承りますが、別便で遅れて発送になる場合があります。ご不便をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。1009(ベートーヴェンの弦楽四重奏曲)、1908(ティボル・シェルリ)、1914(ハンガリー民謡集)。

 

2016年2月10日、昨年末で欧州におけるバルトークの著作権が切れ、新たな出版等もあるようです。そのなかで粗悪品の売りつけや不誠実な対応(結果的に詐欺まがいな行為)を耳にしており、事前に確認して納得して利用されるようお勧めします。具体的にはここ

 

7月21日、ペーテルの後継者で編集者のピーター・ヘニングス氏の手術が終了終了しました(これで2度め)。バルトーク・レコーズの中心人物の怪我と病気でさらに前途多難です。お二人のお見舞い用に千羽鶴を家族で折り始めていますが、どなたか可能な方、手を貸してください。ご希望の枚数の折紙を当方からお送りし、鶴を折って返送していただく形です。メッセージカードを加えるなどの工夫も歓迎いたします。

 

6月12日、ペーテル91歳のお誕生日祝いとお見舞いは、主に資金不足からほぼ断念。ただ、航空運賃が安い9月にお見舞いに行く可能性を残しています。カンパは最初の1件だけです。CD《物語》の訳を《おはなし》に変更しました。新たに「お客様の声」を作りました。ショップ→お客様の声

 

4月18日、ペーテルのリハビリの効果が芳しくなく、車椅子が必要となりました。そのため自宅やバルトーク・レコーズでスロープ設置工事が始まります。

 

4月10日、今月からメール便が廃止されています。代替手段を検討中で、クリックポストにも対応するつもりです。古い表記は順次切り替えていきます。

 

3月18日、まもなく2ヶ月になりますが、ペーテルは当初の予定を越え、現在も病院でリハビリを続けています。快復を祈るばかりです。

 

1月28日、クリスタルリヴァー市のセブン・リヴァーズ・コミュニティ病院に入院中のペーテルは食欲があり、ベッドから起きることもできています。バルトーク・レコーズの職員が自家製のスープを毎日届けています。歩行訓練も含め、あと2週間ほど入院が必要とのことです。

 

1月23日、下記のように書いたところ、さっそく第1号のカンパを頂戴いたしました。もう感謝でいっぱいです(涙)まとまった数になったらご報告することを考えています。

 

2015年1月20日、ペーテル・バルトーク氏が自宅で転倒し、腰の骨を折り入院しました。20日(現地時間)に手術が行われます。高齢のため、手術もリハビリも困難な道のりが予想されます。
 お見舞いの渡米も現実味を帯びてきました。当ショップの昨年1年間の総売上は10万円ほどで、余裕はありません。商品の積極的なご購入、あるいはカンパ(ご寄付)の形でご協力いただけたら幸いです。カンパの送金先は「ホーム」に紹介する専用口座で、あわせてメールで名乗っていただけますようお願い申し上げます。

 

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