1945年9月にベーラ・バルトークがニューヨークで64年の生涯を閉じた時、次男ペーテル(1924-)は21歳だった。悲しみの癒えない中、ペーテルはニューヨークの大学で電子工学を学び始めた。1年後に母はハンガリーに帰国し、本人も卒業後に帰国するつもりだった。
幼い頃から父の蓄音器に親しみ、米国海軍の電気部門で活躍していたペーテルは、学業のかたわら録音機材を自作し、歌手やピアニストに声をかけて録音した。夜も寝ずに録音に熱中し、大学は退学、1949年に25歳で「バルトーク・レコーズ」(日本では「バルトーク協会」とも)を立ち上げた。LPレコードが開発された翌年だった。まず『弦楽四重奏曲第3番』と『戸外にて』の2枚のLPをリリース。ヤーノシュ・シュタルケルの演奏するコダーイの『無伴奏チェロソナタ』で一躍脚光を浴びた。他社からのカッティングの依頼も舞い込んだ。良い響きを求めて試行錯誤を重ね、バスタブをエコールームに使ったり、図書館の講堂でも録音した。50年代初頭にはロンドンやニューヨークでオーケストラ録音も行った。56年にハンガリーへの一時帰国が実現したが、その頃にはアメリカで確立したビジネスを捨てられなくなっていた。そこで両国の間を頻繁に往来しながら働くことを計画した。この頃までにバルトーク・レコーズが発売したのLPレコードは計35種類に上った。
ところが、1958年に父の遺産管理人が遺族から全財産と権利を剥奪し、印税の支払いを停止した。裁判は泥沼化し、ペーテルは遺族を代表して法廷で闘った。82年、母ディッタの死去に伴い遺言の信託が終了したことから、85年に財産や権利の多くを取り戻したが、人生の最も輝かしい時期を訴訟に奪われ、ステレオ録音やCD製作等に積極的に参入する機会を失った。
以来、LPレコードの販売を再開すると共に、取り戻した手稿譜や資料をもとに父の楽譜の改訂に力を注ぐ。2000年に出版社との関係が悪化し、それ以降の楽譜の改訂版は自費出版を余儀なくされ、社名を「バルトーク・レコーズ&パブリケーションズ」と変更。父への愛に生きるが、高齢で別の困難にも見舞われ、前途は容易でない。